Fiorini Giuseppe
Italy / Munich

1861年 ボローニャの西、バッツァーノ(Bazzano)に生まれる。

父親はボローニャ派の創始であるラファエレ・フィオリーニ(Raffaele Fiorini 1828-1898)。

ジュゼッペも幼い頃から父親の工房で働き始めます。工房にはオーガスト・ポラストリ(Augusto Pollastri 1877-1927)やチェザーレ・キャンディ(Cesare Candi 1869-1947)、アルマンド・モンテルミチ(Armando Monterumici 1875-1925)が共に働いており、エミリア州の多数の楽器職人が出入りしていたと思われます。

ジュゼッペは1885年にはボローニャで独立して工房を開き、早くも1881年と1888年の展覧会では賞を獲得します。

その後、ミッテンバルドで弦楽器製作者および実業家として知られていたアンドレアス・リーガー(Andreas Rieger 1836-?)の娘と結婚したことでドイツのミュンヘンに移り住み、1889年頃からリーガーと共に働き始めます。[Rieger&Fiorini]

1896年にリーガーが引退すると社名を[Fiorini]に変更、楽器製作のみならず修理・修復にも優れた技術を発揮し、ドイツのヴァイオリン製作者協会を創設し会長に就任、また有能なディーラーとしても活動するなど中央ヨーロッパで重要な製作者の一人になります。

1912年頃から、再び弦楽器製作に集中するために拠点を移すことを決意し、第一次世界大戦中(1915年)はチューリッヒに移り住みます。後に重要な後継者となるアンサルド・ポッジ(Ansaldo Poggi 1893-1984)はチューリッヒ時代にジュゼッペから弦楽器製作を学びます。

1920年頃にジュゼッペは、サラブーエ伯爵の後継者であるパオラ・デッラ・ヴァッレ侯爵から購入したストラディヴァリの道具や遺品を最大限に活用できるヴァイオリン製作学校を始めようとイタリアに戻り、1923年からローマ、フィレンツェ、トリノ、ボローニャと奔走して、1930年にクレモナでの学校設立を夢見て自治体にストラディバリの遺品を寄付します。※ローマ時代には後にストラディバリ研究の第一人者となるフェルナンド・サッコーニ(Simone Fernando Sacconi 1885-1974)と仕事をしていました。

残念ながらその夢が叶う前にジュゼッペは世を去りますが、1938年にクレモナにヴァイオリン製作学校が誕生しました。

ジュゼッペの楽器にはミュンヘン、チューリッヒ、ローマ、ボローニャなど移り住んだ様々な土地のラベルが存在し、土地ごとのエッセンスを取り入れたニスと緻密で精巧な作り、優れた音響性が現在では高い人気と評価を得ています。

1934年(73歳) ミュンヘンで死去。

引用《 Liuteria Italiana I 》《 The Brompton’s Book of Violin and Bow Makers 》

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